言葉をはきだす機械

ことばをはきだすきかい。コトバヲハキダスキカイ。

僕の神について(1)

 密造したハードリカーを水道水で割って呑む。

 変拍子に合わせて男が歌っている。

 ミツゾウシタハードリカーヲスイドウスイデッワテノム。早い。音楽を文で表すことは出来ないがこんな感じ、のような気がする。

 

 金とはなんだ、宗教を信じていなくとも金を信じることはできる。

 金を絶対と信じなくとも、キリストだけを、YHVHだけを絶対と信じる事と、音楽をだけ、芸術だけを、恩師だけを、君だけを絶対と信じる事とに果たしてどれほど信仰のレベルにおいて差があるというのだろうか。

 神の子を信じていないとしても、その他を信じるその態度は一神教となんら変わらないというのは面白い、ような気がする。

 

 だからこそ、「密造したハードリカーを水道水で割って呑む。」というヤハウェも、オルフェウスも、弁財天も、バッカスも信じない姿勢にずっと憧れている、ような気がする。

 

ンクク

 青春、とはなんだろうか。

 

 最近その系統の本を多く読んだせいか、ふと考える。

 人を傷つけて、人を悲しませて、人に憎まれて、人の純粋な善意を偽善と呼んで嘲り、人の思いを当然のように裏切っていく。

 それでも平然と、ほとんど気にせず生きていられる、そんな時代。だいたいそのようなものではないだろうか。

 ただこのままでは、現在もそのような行為を行っている、もともと人は自分のための舞台装置である、というような人もいると思うので最後に、それでもどこか一部分だけは輝きと矜持があり、許したくなる何かがある時代。という定義も付け加えておく。

 

 楽しい地獄。

 

 上記のような定義をしたうえで(人が自分に輝きや、許しを覚えたかは甚だ疑問ではあるが)、自分が過ごした青春とはこのように言い切ってよい気がする。

 

 青春。自己と事故のぶつかり合い、ビリヤードの第一投のようにぶつかり合い、ひかれあう自分と友人たち。

 あの時の火花を、あの一瞬の輝きを、青春と、エバーグリーンと、呼んで差し支えないのかもしれない。

 

 楽しい浄土とも、つまらない楽園とも、最低の奈落とも言えない今を生きる自分としてはふと羨ましくなる瞬間もある。

 

 もちろん二度と戻りたいとも思わないし、あの地獄を再び生き延びられるとも思わないが。

はいたものを再度はく

 昔はき出した言葉たちを見つける。

 

バナナの皮で転んだら あなたにまずは笑ってほしい 大丈夫?とか言うなよ。怒るぞ。

二日酔いなんで吐きます。仕事があるんで走ります。ほら、青春。

世界を終わりと呼んで遊び続けた夏の夕暮れ

作り物の天才と嘘をつく天才と本物だという天才

本物になりたいと泣いたら夜に僕を笑ったあの虹

5歳の夢をみていたね 好きな人以外はすべて死ね

心の機微など知らないけれど それでも君を友だと言わせて

関係ない関係ないと愛してほしくて 始まる真夜中

神様の伸ばしたその手蹴りとばす あはれでいいよそれより歌なの。

現実が 確実だとは思えない ふんにょりの道くにゃくにゃと行く

桃さわる 桃潰してる 桃壊す 桃桃桃も桃も桃「夢」

冷え性で氷のような僕の手を実は自慢に思っている、冬

ぐちゃぐちゃの極彩色で飛び立つの どうせ長くはもたないなんて 知ってるけれどそれがなんなの

僕たちの夢はいつでもべちゃべちゃだ 砂糖まみれのべちゃべちゃの「白」。

さぁ踊れさっさと笑えすぐに飲め 嘘になりたい サルのシンバル

錆び付いた光の渦を撒き散らし僕らは涙に近づいてゆく

うっすらとこぼれる雫が惑星で 隣の箪笥がこの僕だ

隅っこの ゴミ箱のよな きらきらの あの日の夢が 続いてる場所

誰がために 伸ばした腕を 引き千切る 綺麗なものは 壊されていい

堂々巡りの夏を行け 無明の光の真ん中に 白い白い白い僕ら

死にたいと歌えば君は僕にいう 「青になれたら死んでもいいよ。」

世界はさ きっと僕らを許すんだ だから僕らは子供でいよう

「光のなかに立っててね」「何故?」「好き」「何故?」「す、ポリリズムなの。」

呼吸の仕方を知ってりゃ奇跡だなんてたまにはいいこと言うぜおっさん

呪詛の様な祝詞に塗れたあの日から 僕は未だに逃げないでいる 地獄みたいに綺麗な青色

「生きている」においが嫌い 僕はただ 「嘘」でありたいだけなのに

目がさめて 手で触れて ああ君が 僕の神だったのか なんて夢をね。

 

 なんとなく良かった(と思う)言葉たちを、缶ビール君、ハイボール君が精選(でもないか)。そこからさらに彼らが何個か審議したり推敲したりして太字に。とでも言わなきゃ恥ずかしい。けど好きなんです、やっぱり。

緑、赤、白でありながらそれはクリスマスではなく。

 ああ、そういえばあなたでしたね。

 仕事からの帰り道、立ち寄った本屋で頭の中で呟く。

 

 振り返ってみると、自分の人生には「それから」の自分と「これまで」の僕を大きく変える転機があった。すべて中学生の時だ。

 一つは「thee michelle gun elephant」。自分の中に「音楽」「ロック」「バンド」「ギター」が根付いた瞬間だった。「黒いタンバリン」の始まりの音を生涯自分は忘れることはないだろう。

 一つは岡崎京子の「ヘルタースケルター」。基本小説か実用書しか購入しない父親が、なんの戯れか購入し応接室に転がしていたマンガだ。なぜあんな劇薬を中学生の息子の視界に入る場所に置いていたのか、未だに理解できないし、質問も出来ずにいる。

 

 そして最後の一つ。それが彼女、アゴタクリストフの「悪童日記」だ。

 これは前述の二つよりも早く中学一年の秋だったと記憶している。

 小説家をめざしている。夢はなにか、と問われるたびにそう答えていた僕に国語を教えていた常勤の女性講師が貸し与えてくれた作品だ。

 細部までは記憶していないが、そこに描かれていたのは乾いた性欲、意味のない暴力、なぜか悲しみが欠落した絶望。そんなものたちだった、ような気がする。

 それまでも小説を読んでいた僕としては活字の上で踊る性や暴力や死に関してはなれていた。同年代の子たちよりもそういったものたちとは親しく付き合っているはずだった。

 何が違ったのだろうか、そこに描かれた世界は僕を惹きつけ、自分の中の価値観というべきものの中心あたりに未だ居座っている。

 緑、血、雪、精液、少女、軍人、そして二人の少年。自分が思いだせる情報としてはこれぐらいだがこの言葉の並びは自分の中でとても懐かしく、大切な部分に収まっている。

 果たして彼女は何を思い僕にこの本を貸し出してくれたのだろうか。返却する際にとても面白かった、という旨をつげると困ったように笑い、それ以降一冊も貸してくれずに離任してしまった彼女。未だに教鞭を振るっているのだろうか。

 

 結局自分は本屋で見つけた彼女を購入し帰宅した。読み直す気は今はない。

 

 なんの因果か自分は当時の彼女と相似した年齢になり、相似した方法で賃金を得ている。彼女を読み直したあと、果たして自分はこの物語を生徒に差し出すのだろうか。

 これが物語であるならばそれも良いかもしれない。

おはよう

 ハロー、ワールド。ハロー、ワールド。ハロー。ワールド。

 

 なんて素敵な言葉だろうか。

 

 所詮この世は胡蝶の夢、水槽の中の脳だ。そんなことは知っている。

 

 そう言われても僕らは始めなければならない。

 

 「ハロー」に関しては好きにしてくれてかまわない。もし何かの間違いでこれを読んだ右の人、もしくは英語大嫌い人間がいるならば、今日は、おはようございます、ありがとうございます、などの日本語にしてくれてかまわない。

 ただ「ワールド」に関しては駄目だ。これは訳しては駄目だ。「ワールド」と嘯けば楽しい気持ちになるからだ。それでも嫌なら好きにすればいい。

 

 始めたものは終わらせなければならない。

 

 こんにちは世界。はじめましてワールド。

 

 君は、大丈夫だ。君は、大丈夫だ。君は。大丈夫だ。

 

 世界は回る。

C♯m

 ごろごろとしたものが体の中をせり上がってくる。本来たどるべき順序とは全く逆の道筋をたどるそれを僕はたまらず吐き出した。

 それは三時間前に食べたウインナーだった。茶色、薄いピンク、酸味。自分の吐瀉物を見るたびに昔読んだ小説を思い出す。人間の脳漿は白とピンクだというが本当だろうか。アイドルは全てがピンクだというが果たして。

 

 どこからかまたぞろ空が雨を集めてくるようだ。ザーっという音が勢いを増して近付いてくる。水、雨、滝、シャワー、トイレの流水、水たちが作る音は僕に眠りや、瞑想に近い安心を与えてくれる。それはたぶん死ぬこと、もしくは母の胎内で覚えた安心。それはやさしいノイズにも似た。

 

 最近はコーヒーが美味しい。

ぼろにぼろ

 さて並べてみようか。死体、聖体、翡翠にメロウ。蟻地獄からはちゃかぽこちゃかぽこ煩いな。どこかにどんでんがえしがあると、つまらないまま続く演劇。かわかわかわかわかわらな、セカイ系にはほとほと飽きたよ、それでもこうして使者のふり。ありがとう、ごめんなさい。こうして世界は終わりました。さようなら、きっとあなたは僕が嫌い。身捨つるほどの祖国は在りや、アリアハン。勇者。おやすみなさい。