言葉をはきだす機械

ことばをはきだすきかい。コトバヲハキダスキカイ。

緑、赤、白でありながらそれはクリスマスではなく。

 ああ、そういえばあなたでしたね。

 仕事からの帰り道、立ち寄った本屋で頭の中で呟く。

 

 振り返ってみると、自分の人生には「それから」の自分と「これまで」の僕を大きく変える転機があった。すべて中学生の時だ。

 一つは「thee michelle gun elephant」。自分の中に「音楽」「ロック」「バンド」「ギター」が根付いた瞬間だった。「黒いタンバリン」の始まりの音を生涯自分は忘れることはないだろう。

 一つは岡崎京子の「ヘルタースケルター」。基本小説か実用書しか購入しない父親が、なんの戯れか購入し応接室に転がしていたマンガだ。なぜあんな劇薬を中学生の息子の視界に入る場所に置いていたのか、未だに理解できないし、質問も出来ずにいる。

 

 そして最後の一つ。それが彼女、アゴタクリストフの「悪童日記」だ。

 これは前述の二つよりも早く中学一年の秋だったと記憶している。

 小説家をめざしている。夢はなにか、と問われるたびにそう答えていた僕に国語を教えていた常勤の女性講師が貸し与えてくれた作品だ。

 細部までは記憶していないが、そこに描かれていたのは乾いた性欲、意味のない暴力、なぜか悲しみが欠落した絶望。そんなものたちだった、ような気がする。

 それまでも小説を読んでいた僕としては活字の上で踊る性や暴力や死に関してはなれていた。同年代の子たちよりもそういったものたちとは親しく付き合っているはずだった。

 何が違ったのだろうか、そこに描かれた世界は僕を惹きつけ、自分の中の価値観というべきものの中心あたりに未だ居座っている。

 緑、血、雪、精液、少女、軍人、そして二人の少年。自分が思いだせる情報としてはこれぐらいだがこの言葉の並びは自分の中でとても懐かしく、大切な部分に収まっている。

 果たして彼女は何を思い僕にこの本を貸し出してくれたのだろうか。返却する際にとても面白かった、という旨をつげると困ったように笑い、それ以降一冊も貸してくれずに離任してしまった彼女。未だに教鞭を振るっているのだろうか。

 

 結局自分は本屋で見つけた彼女を購入し帰宅した。読み直す気は今はない。

 

 なんの因果か自分は当時の彼女と相似した年齢になり、相似した方法で賃金を得ている。彼女を読み直したあと、果たして自分はこの物語を生徒に差し出すのだろうか。

 これが物語であるならばそれも良いかもしれない。